あほろばの手記

生死確認かチラシの裏に書くような散文置き場

願わくは花のもとにて春死なん その如月の望月のころ

若い頃、特に十代の私は刹那的な生活を送っていて、毎日寝るところも違う、寝る時間も違う、三日間ぐらい寝ないでいてあちこち彷徨っていた。ここ数年前まで家を出たら帰ってこない「鉄砲玉」とか母にいやみを言われるくらいで、子供が幼い頃は特に子供と一緒に外出して家を空けて車の中で仮眠を取ったり、アウトドアな楽しみや図書館やドライブで一日過ごしたり、近年はオフ会に参加したりで日本の真ん中あたりや首都にあしげく通ってたりした。
こう言うととっても人生をエンジョイしていて悩みもないだろうと思われるだろう。むしろ仕事ばかりしてくたくたで寝てばかりな今の方が精神的にも不健康と母に見られている。
しかし、私が放浪を続けていたのはいつ死んでもいいようにたくさんのものを見て知って感じたかったからだ。
それは行動にも現れてかなり危険なことをしたり、自分の命や運命を試すようなことばかり繰り返していた。
いつ死んでもかまわない。私は私であればよい。成すべき事を成せば全ての苦厄から開放されると思い込み、いつ死んでもいいように独善的に自分の生き方を決め身勝手に行動してきた。
西行法師の詩のように美しさの中で頓死することを願いながら・・・



今の私は大切なものたち愛しい人たちのために礎となることは、この世の中のどんな行いよりも尊いと思っている。
生命は儚いからこそ永続しようと試み次へ次へと伝えていくことの大切さ。
命の担い手である子供たちに花を持たせることの責務。
過去の私からすれば間逆な価値観で泥の中であがく蛾虫のようにしか見えないだろう。
それでもこの生き方はそれなりに美しいと思っている。
古より連綿と続く命と心のリレーを途切れさせてはいけない。
そう思っている、そう願っている。



今年も桜が咲いている。
冷たい雨の中、花嵐に花びらが散っていくも桜の美しさになんら遜色はない。
今日も仮眠を取り家事をする。今年も子供たちと花見に行くことを楽しみにしながら。